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ホーム > 特許庁について > 産業財産権制度の歴史 > 初代特許庁長官高橋是清について

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初代特許庁長官高橋是清について

高橋是清(1854~1936)

略歴

高橋是清

1854年(安政元年)江戸・芝露月町(しばろげつちょう)にて生誕。十四才からの海外流浪などののち、1872年(明治5年)官吏の道に入る。大蔵省を振り出しに、1881年(明治14年)農商務省入省、1884年(明治17年)商標登録所長、1885年(明治18年)には専売特許所長を兼務。1906年(明治39年)正金銀行総裁、1911年(明治44年)日本銀行総裁、1920年(大正9年)子爵、1921年(大正10年)総理大臣兼大蔵大臣、政友会第四代総裁、1924年(大正13年)衆議院へ。1934年(昭和9年)岡田内閣の蔵相となり、在任中の1936年(昭和11年)、2・26事件に倒れる。

工業所有権制度に関するエピソード

高橋是清が専売特許、商標登録といったものに興味を持つきっかけは、1874年(明治7年)ごろのことであった。当時、彼は文部省に教育制度確立のため雇われていたアメリカ人モーレー博士の通訳をしていた。

かのヘボン博士が辞書を再版する際に、版権をとる方法についてモーレー氏に相談があった。是清が内務省に行って調べたところ、当時外国人にはいわゆる治外法権が存在し、日本の法律は彼らには及ばず、それゆえ保護の途もないとのことであった。この際にモーレー氏が言われたことには、「日本には著作を保護する版権はあるが、発明・商標を保護する規定がない。外国人は、日本人が外国品を真似たり、商標を盗用して、模造品を舶来品のようにして販売していることを非常に迷惑に思っている。米国では発明、商標、版権の3つを智能的財産(Three intellectual properties)と称して最も重要な財産としている。日本でも発明・商標を保護する必要がある。」この話を聞いた是清は工業所有権の重要性を大いに感じ、大英百科事典の概略をたよりに、研究を進めたという。

以後、是清は商標制度、特許制度の制定に尽力するのであるが、ともに困難を伴った。商標制度については、暖簾と商標の混同が問題となった。東京商業会議所によると、暖簾とは永く忠勤した番頭に、その主家から分けて与えられるものであり、それを登録して登録者の専有物として、いっさい他人が使えなくするのは商習慣に悖るとのことであった。

しばらく後になって、ようやくその区別を理解し、東京商業会議所も商標条例制定に賛成となり、1884年(明治17年)に商標条例は発布された。また、特許制度については、以前に発明専売略規則が制定された際、発明の審査にあたる者がおらず、多数の外国人を雇うのにも費用がかかるとのことで、結局執行停止に追い込まれた経緯があり、反対の議論が強かった。しかし、その頃帰国した森有礼氏の協力によって、1885年(明治18年)に専売特許条例が制定された。

この後、是清は外国制度の調査のために欧米視察を行った。その際のエピソードであるが、彼は特許制度に関する資料収集に精力的に努めており、米国特許院が毎週1回発行している判決録等の資料を過去5ヶ年ほど手に入れたいと考えた。しかし、5年分となると莫大な額にのぼるため、無料でほしいと交渉した結果、日本版5年分と交換ということで折り合いがついた。だが、日本ではまだ出版していないので、出版したら以後5年分を送付するとのことに決まったという。

また、是清は欧米視察のベルリン滞在中に京都の織物業者で家伝の織物見本を携えてヨーロッパ諸国を巡って注文を受けている川島という人物に会い、彼のヨーロッパでの経験を次のように聞いている。

「日本でもいずれ意匠の保護をするようになるでしょうが、図柄の保護とともに、色の配置の保護に重きを置くべきです。私の織物や布地の意匠は、ドイツ、フランスでたびたび盗まれています。盗作の見本をお送りしますから、本物とよく見くらべて下さい。」

是清は川島の送ってきた見本を実見して、意匠特許の重要性を知り、日本に意匠制度を制定するきっかけになったといわれている。

さて、前述ヘボン博士の版権が如何様になったのかは定かではないが、版権等に関する治外法権については、後に不平等条約の改正においても問題となった。1888年(明治21年)に農商務大臣となった井上馨が是清に、外国から輸入した新式の機械を保護するために、初めて輸入した者に専売特許を与えるような法律をつくるよう指示した際に、是清は次のように答えている。「英国に滞在中に聞いた話であるが、条約改正において日本から外国に求むるべき事は多くあれど、外国から日本に求むるものは少ない。発明の保護は決定せずに残しておいて、条約改正の時にうまく利用する方が日本のためである。」これを聞いた井上も法律を作成しないことに納得したという。以後、1894年(明治27年)の日清戦争の勝利によって日本は列強から認められ、同年の日英通商航海条約締結によって不平等条約の改正が実現した後、1896年(明治29年)には外国人からの特許出願が受け付けられるようになり、1899年(明治32年)にはパリ条約に加盟することとなった。

(以上出典:「高橋是清自伝」中公文庫)

このように発展していった日本の特許制度は、昭和11年には50周年を迎えた。これにちなんでNHKラジオが是清に「特許制度が始まった頃について」というタイトルで出演を依頼したが、彼はラジオ出演を好まず、依頼を断った。そこで、300人ほどの観客を集めた上で講演会として依頼し、講演席に少々物を置かせてもらうということで承諾を得た。しかし、是清が当日講演会場にいってみると、なんとラジオ用のマイクが置かれていた。さすがの彼もこれには応じざるを得ず、彼にとって初のラジオ講演が行われることとなった。彼がラジオで講演を行うというのは非常に珍しい、ということでNHKは当時非常に重要な放送であった漁船通報を中止してまでその放送を行ったという。また、同講演では速記でメモがとられ、会場の出口で即座に配布されたため、人々は大いに驚いたということである。

また、特許庁には「高橋是清氏特許制度に関する遺稿」という文書が所蔵されている。これは高橋是清邸に保管されていた1885年(明治18年)前後の諸文献が、特許制度50周年を契機とした調査に際して寄贈されたものである。特許局の資料は関東大震災で悉く焼失してしまっており、是清の私邸に保管されていたからこそ残っている非常に貴重な資料である。なお、この調査に際しては、当時特許庁の末席事務官であった長村貞一氏(第35代特許庁長官)が高橋是清氏からの聴き取りを行った。

その際には、興味深いエピソードも残されている。例えば、ある発明狂が棺桶の特許を出願したが拒絶されたため、特許局に抗議を行った。このとき発明狂に追いかけられた是清は、テーブルの周りを七周半も逃げ回ったという。

また、二人の出願人が特許庁に激しく抗議を行ったということがあり、警視庁の巡査が「不穏な動き有り」として二人を尾行した。二人がそば屋に入り、食事中「今後こういったことはやめよう」と話しているのを聞き、巡査は「爾後、是心配なかるべし」と報告したという。

[更新日 2001年4月23日]