特許行政年次報告書2018年度版
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特許行政年次報告書2018年版ii特許行政年次報告書2018年版ii~明治初期からの産業財産権制度の歩み~冒頭特集また、明治元年(1868年)前後の段階において、福沢諭吉による「西洋事情」外編第3巻や、神田孝平による「西洋雑誌」第4巻掲載の「褒功私説」のように、海外の産業財産権制度の紹介や我が国での必要性を説く論説が多く出されており、我が国では産業財産権の重要性が早くから認識されていたとともに、同時に普及も進みつつあったことが窺える。例えば、福沢諭吉は、「世に新発明のことあらば、これよりて人間の洪益をなすことを挙げて言うべからず。ゆえに有益の物を発見したる者へは、官府より国法をもって若干の時限を定め、その間は発明によりて得るところの利潤を独りその発明者に付与し、もって人心を鼓舞する一助となせり。これを発明の免許(パテント)と名づく」1として、発明の奨励とそれによる国民の利益を説明している。このような状況の中、明治2年、各種議案を審議する公議所において特許制度の制定を求める議題が可決され、明治4年には専売略規則が制定された。しかし、この専売略規則は明治5年には執行停止された。この理由は明らかではないが、初代特許庁長官の高橋是清がその自伝において「ひとたび発明専売略規則なるものが発布されたが、実施する段となって、発明の審査に当たる者がない。」2と記載があるように審査実施体制の不備や、あるいは、発明者に対して専売を与えるべきか褒賞とするべきかとの政府内での議論などが要因として考えられている。しかしながら、専売略規則の執行停止後においても、特許制度を求める世論は日増しに高まり、政府に対して多数の上書や建白書が提出されるとともに、新聞や雑誌へも多数の論説が掲載された。この中、専売特許に関する立案作業は政府内でも継続して行われており、明治6年からは大蔵省で、明治10年からは内務省及び工部省で、それぞれ制定作業が開始された。また、明治4年から、岩倉具視を筆頭とする使節団が米国と欧州を訪問し、条約改正交渉に代えて各国の政治や産業等の視察を実施し、明治6年に帰国した。この使節団は、米国の特許局を訪問するとともに、米欧各国の特許関係の資料を持ち帰り、専売特許条例制定作業に大きな影響を及ぼしたといわれる。その当時(明治7年頃)、先述の高橋是清は、文部省に教育制度確立のため雇用されていたモーレー博士のための通訳を行っていた。博士より、日本には商標や発明を保護する規定がなくその必要がある旨の話を聞いた高橋是清は、産業財産権の重要性を大いに感じ、当時の大英百科事典を基にその研究を進めるとともに、文部省内でも産業財産権の保護の重要性を説いていた。1 福沢諭吉「西洋事情」外編第3巻、29-30丁2 高橋是清「高橋是清自伝」(千倉書房、1936年)218-219頁図1 明治期における我が国から諸外国への輸出高の推移(左:衣類及びその付属品、右:金属製品)(備考)左図の明治2-3年は下記資料にデータが記載されていない。(資料)東洋経済新報社編「日本貿易精覧」(1935年)に基づき特許庁作成1億1千万100万10万万千百明1明6明11明16明21明26明31明36(年)(円)明411千万100万10万万千百明1明6明11明16明21明26明31明36(年)(円)明41

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