特許行政年次報告書2018年度版
25/372
特許行政年次報告書2018年版x特許行政年次報告書2018年版x~明治初期からの産業財産権制度の歩み~冒頭特集さて、わが国の特許制度の創設に際して、高橋是清が大きな役割を果たしたことはよく知られている。高橋の尽力により、実質的にわが国初の特許法である「専売特許条例」が明治18年7月1日に施行され、彼は専売特許所所長(現在の特許庁長官)に任ぜられた。高橋は、伊藤博文(当時は制度取調局長官)の意見に従い、同年11月から一人、海外特許庁視察の出張に出る。太平洋を横断して米国を訪問、その後大西洋を横断して英仏独各国を訪問し、海路喜望峰回りで帰国するという、1年にもわたる旅であった。この出張の際、高橋も上記ワシントンD.C.の特許庁を訪れているが、帰国直後、彼は米国特許庁の建物に倣ってわが国でも立派な特許局庁舎を建てようと考える。松方正義大蔵大臣とも直談判して12万円という予算を確保(明治19年の高橋長官の月給が150円、高峰譲吉次長は100円という時代)、設計図も仕上げたが、そこで新任の井上馨農商務大臣に「こんな大きなものを建てて一体何年これをやる見込みか?」と詰問された。これに対して高橋は、「まず今後20年です。20年経って、これでは狭いというようにならねば、日本発明界の進歩はおぼつかないと思います。東京見物に来た者が、浅草の観音様の次には特許局を見に行こう、というくらいにしたいと思います。」と答え、井上大臣の快諾を得ている。(出典:「是清翁一代記」上巻p.326-329 昭和4年12月25日 朝日新聞社発行)高橋の尽力で東京市京橋区木挽町に建てられたその建物は、明治24(1891)年に完工し、11月16日から特許局庁舎として使われた(その後、農商務省庁舎を経て、1923年の関東大震災で倒壊)。高橋は、米国の特許庁職員が庁舎に誇りを持って職務に当たり、またそこに多くの一般市民が訪れていることを見てきたからこそ、わが国でも東京の名所の一つに数えられるくらいの立派な建物にしたいと考えたのである。そこに多くの国民が集うことによって、発明の振興を図り、もって産業の発展に寄与しようとした。今では、特許庁は電子出願を実現し、電子公報を発行することによって、わざわざ特許庁庁舎に足を運ぶ人も少なくなった。しかし、HPのコンテンツを充実させるなど、IT技術を駆使して情報発信に努めている。時代に即したヴァーチャルな環境で、かつて高橋是清が夢見た「多くの国民が集う特許庁」を目指している。米国特許庁庁舎内景(「特命全権大使米欧回覧実記」第一編第12巻より)特許局の木挽町庁舎正面図(「工業所有権制度百年史」より)米国特許庁庁舎外観(「特命全権大使米欧回覧実記」第一編第12巻より)
元のページ
../index.html#25